日本に初めて麻雀が入ってきたのは、明治42年のことで、名川彦作氏により麻雀牌が持ち込まれた。同年、夏目漱石は朝日新聞に連載していた『満韓ところゞ』に、中国で麻雀らしきゲームを見たと書いている。
大正時代のなかばを過ぎ、まず麻雀に飛びついたのは文人、そして上流階級の人々だった。菊池寛、久米正雄、里見とんら文学史に名を残す人たちが、この時期から麻雀に熱中していった。
一般に広まったのは、大正12年の関東大震災を過ぎてからのこと。そして昭和初期になると、麻雀は日本で最初の全盛期に入る。昭和4年には日本麻雀聯盟が結成され、第1回全国麻雀麻雀選手権大会が開催された。日本初の麻雀荘は大正13年に作られた「南々倶楽部」だが、昭和4年になると東京だけでも1500軒を突破していた。
しかし昭和8年頃から警察による取り締まりが厳しくなり、麻雀の興隆は翳りが見え始めた。さらに戦争への道を進むにしたがい、下火になっていく。 昭和20年、終戦とともに人々のあいだにふたたび麻雀の火がついた。この頃から、復員者の影響もあって途中リーチが広まり初め、あちこちでルールに混乱が生じた。これをまとめたのが、報知新聞と天野大三である。
その後、ドラが生まれ、ゾロ場になり、さらに1ファン縛り、ノーテン場3千、ノーテン親流れと、戦後の「決め」は変化していった。こういった状況が落ち着いたのは昭和40年ごろ。この頃から昭和60年頃までが第2次麻雀全盛時代であった。昭和44年、阿佐田哲也の『麻雀放浪記』は連載を開始すると同時に爆発的な人気を呼んだ。同じ頃、日本テレビの『11PM』が麻雀を放映し、ファンは画面にかじりつく。
そして昭和47年になると、ファン待望の麻雀専門誌、月刊『近代麻雀』が竹書房から創刊され、ブームもピークを迎えた感があった。 現在、マンガやゲーム、インターネットなど新しいメディアの力もあり、麻雀は勢いを盛り返しつつある。そして麻雀博物館の開設も文化的な基盤を支えることで、新たなる興隆の一翼を担っている。



菊池寛は作家でありながら文藝春秋の社長でもあった。同社が麻雀の普及に大きな功績を残したことを考えると、菊池の貢献度がいかに大きかったかがわかる。そんな菊池も、大敗すると機嫌が悪くなり、言葉数が少なくなったそうで、「くちきかん」と陰でささやかれていた。





国産第1号の「文藝春秋麻雀牌」。骨の厚さが2分3厘であることから28円程度の中級品。昭和の初め、日本では麻雀が爆発的なブームになった。火付け役となったのは菊池を筆頭とする『文藝春秋』関係の文士たちであった。昭和4年、文藝春秋は麻雀牌を輸入して販売を始めた。さらにブーム到来とともに麻雀牌が不足したため、オリジナル牌を製造販売した。



当時は箱も不可欠なアイテムだった。

文藝春秋発行『モダン日本』昭和5年10月創刊号に掲載されたもの。牛骨の厚さ1分5厘の廉価版が18円、厚さ3分の最高級品が42円となっている。



名川彦作の名前は日本麻雀史の第1ページに燦然と輝いている。名川氏は中国・四川省で英語教師をした後、明治42年に帰国した。このときに彼が持ち帰った牌こそ、日本に上陸した麻雀牌第1号なのである。 名川氏はまもなく樺太の女学校に赴任するが、そこで同僚や生徒たちに麻雀の手ほどきをした。さらには女生徒の嫁入り道具として麻雀牌を持たせたという名川氏の持ち帰った牌は、その後ながいあいだ行方がわからず、日本麻雀史の空白となっていた。それが「麻雀博物館」設立に際してご子息から連絡が入り、幻の牌は、ついにその姿を博物館に見せた。

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